今回ご紹介する高瀬川沿いの道は、観光道路ではなく、生活道路であることにご留意下さい。
この通り沿いの建物の多くは民家であり、この道沿いに日常の生活が営まれています。大声で会話しながら歩いたり、通りがかりの人の写真を断りなく撮ったりなどの行為は慎んで下さい。
河原町通りと鴨川の間には高瀬川が流れている。よく書籍で紹介されるのは二条〜四条近辺だが、高瀬川は四条でなくなっているわけではない。高瀬川は二条の北にも、四条の南にも流れているのだ。 ここでは七条〜五条間を紹介することにする。
調べてみると「高瀬川」は日本中のあちこちにあることがわかる。ざっとみるだけで、長野、島根、香川にも「高瀬川」は存在するらしい。
高瀬川の由来は「高瀬舟の往来があったから」であるという。 高瀬舟は平底の船である。その構造は人工河川での利用に適している(高瀬=浅瀬を意味する)。
ということは、運河ができてそこに高瀬舟が行き来し、それから高瀬川と呼ばれだした、ということになる。
七条側。
車で走っていたら高瀬川が流れていることも、橋をわたっていることにも気がつかないようなところにある。でも、欄干にはちゃんと高瀬川、と書いてある。
冒頭で述べたように、同じ高瀬川沿いであっても、五条以南は観光道路などではない。 川の両側に並んでいるのはごくごく普通の民家である。
この左岸側にある道を木屋町通り、右岸側にある道を西木屋町通りという。
木屋町通りも西木屋町通りも、車の通行量は多くはない。
左側の写真に写っているのは豆腐売りのおじさん。
このあたりは、住んでいる人たちによって整備されている側面も多分にあると思う。そこここに草花が植えられ、(なぜか)手水鉢が置かれていたりする。
途中にお風呂屋さんもあった。
「紀念」と書かれた碑があった。 立っていたのが川縁ぎりぎりだったが、落ちないように裏側をのぞいてみた。
『菊濱学区清流會 昭和八年五月竣工』
と書かれてあった。
この高瀬川はいつ頃にできたものか、というと、実は相当に昔である。 京都の豪商、角倉了以の手によってつくられたのが1614年というから家康治世の頃になる。 高瀬川の下流、伏見には角倉橋という橋にその名が残っている。
不勉強な話だが、そんな頃にできたものだとは思わなかった。 角倉了以の名は知っていたが、豪族=幕末というイメージを持っていたのだ。
なお、了以は完成を見届けたのち、同じ年に亡くなっている。
(左)きょうちくとうの花が咲いていた。もう秋だ。
(右)人とすれ違うときも気をつけなくてはいけないような道幅の狭いところもある。 もちろん、車も通れない。
五条大橋西詰めにある義経と弁慶のモニュメント。 左側が義経(欄干に乗っている)。 河原町側にベンチなどがおかれているが、このモニュメントには近づけない。
(左)五条大橋から北をみる。 正面の橋が松原橋、中央左が大文字山。川の左側には川床が見える。
(下)五条大橋右岸から川辺に下りることができる。
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